渡された茶碗を大事そうに抱えるとマリアはテーブルについた。
彼を一瞥するといきなり食事の作法も何も関係なくかき込む様に食べ始めた。
その一杯の茶碗の中身がどれだけの意味を持つかなんて考えてもいないように。
この3年間、食べられる時に口に放り込むという事が食事なのだという生き方をマリアはしてきた。
その為になら何でもしてきたし、そうしなければ生き延びて来れなかっただろうから。
マリアが食事をしている様子をテーブル越しに黙って眺めていた彼はやがて口を開いた。
「食べ終ったら外へ出よう。」
彼の言葉に促されてマリアは口の周りを袖で拭うと立ち上がった。
夏至が過ぎたばかりの季節、納屋の外はまだ明るかった。
納屋の裏手に小高く白樺の木々が立ち並ぶ林がある。
二人は林に向かって歩き出した。
遠くに見える村から焚き火の煙が筋になって空に流れて行く。
耳を澄ませば心無しか歌声やざわめきも伝わって来るようだ。
「イワン・クパーラのお祭り……。」
マリアがつぶやいた。
その言葉に彼が聞いた。
「おまえはシベリア生まれじゃ無いのか?」
「……キエフ。」
「そうかキエフか、ウクライナか。」
「うん。」
「俺もだ。」
彼は嬉しそうに続けた。
「そうかそうか、俺もウクライナ人なんだ。」
「それが?」
マリアは気の無さそうにそう言うと白樺の木の根元に座り込んだ。
丁度良い具合に倒れた木が背もたれになった。
林の中は積み重なった落ち葉と下草で柔らかい褥の様だった。
「こういうことは嬉しいものだろうが。」
「……。」
彼もマリアの横に同じように腰掛けると下げていた鞄の中から瓶とグラスを取り出した。
「嬉しい時にはお祝いをするものだ。」
彼は2個のグラスに透明な液体を注ぐとその一つをマリアに渡し、軽くグラスの縁をあわせると陽気に言った。
「トースト!」
マリアは一気にグラスを空けるとそのまま彼にお代りを促すようにグラスを差し出した。
2杯目のウォッカも間を置かずに空けられた。
夕べからの作戦の失敗の結果が朝日の中で明白になる。
白い布に包まれて運ばれてきた彼は仲間達の手で粗末な柩に移された。
彼が倒れた事により混乱した部隊の中で後を追うように倒れていった多数の同志と供に。
布が解かれ、顔についた泥が拭われ、血のついた服を脱がされる。
旅立ちの為の装束を着せられ柩に納められると、強張りかけている腕が無理に動かされて胸の前で組まれる。
そうやって嫌な音をたてながら指が組まれた後、男達は額から胸、右肩から左肩へと十字を切って次の柩へと取り掛かる。
無言で作業を続ける男達に混じってマリアは手を出すでもなく、しかし彼の元を離れる事も出来ず柩の傍らに立ちすくしていた。
マリアの頬や手には倒れ込む彼を掻き抱いた時に浴びた血のりがまだべったりと付いたままだった。
時間が経って赤い色がいつしかどす黒く変わってはいたが砲弾が隊を直撃した時に捲き上がった泥混じりの雪で汚れた皮膚の色とも明らかに違う。
「マーニャ、あんた……。」
柩の中にせめてものたむけへと集められた花を一輪ずつ添えて歩いていた女が驚いてマリアに声をかけた。
何かとマリアの世話を焼いてくれる面倒見の良い女だった。
「ちょっとおいで。」
女はマリアの手を取るとぐいと引っ張った。
手をひかれるままについて行くと女はマリアを外に連れ出して裏の井戸端に立たせた。
「あんた酷い顔してるよ。ほら……。」
そう言うとポケットの中から小さな手鏡を取り出してマリアの手に握らせる。
それから井戸のつるべに手を架けると勢い良く水を汲み始めた。
鏡を持ったまま焦点の定まらない表情で自分の顔を眺めているマリアの服を脱がせると身体を拭き出した。
汲みたての井戸水に浸された布は冷たく肌に触れるとマリアはビクッとして身体を仰け反らせた。
「ああ、ごめんよ。冷たかったね。」
そう言いながらも女は手早くマリアの身体を拭き続ける。
身体の汚れを綺麗に拭き取って貰いもう一度服を着せられる間もマリアは人形の様にされるがままでいた。
「ほらさっぱりしただろう。でもその頭、昨日からそのままなんだね。」
女は今度は櫛を取り出すと背中に垂れる太い三つ編みが弛んでいるマリアの髪に手をかけ髪を縛っていたゴムを外した。
「いっ、いやぁっ。」
その瞬間今までされるままでいたマリアは悲鳴をあげると三つ編みをかばうように両手で頭を抱えてしゃがみ込んだ。
マリアはそのまましゃくりあげながら泣き出した。
「隊長…、隊長…うっ……ううっ……。」
母親程の年回りの女は一緒にしゃがみ込むとマリアの肩を抱きしめた。
「そうだよねぇ、本当にそうだよねぇ……。」
マリアの泣き声が少しずつ収まるまで背中に廻した手でとんとんと叩き続ける。
母親がむずかる赤ん坊の背中を優しく叩きながらあやす時の様に。
次第にマリアが落ち着きを取り戻すまでいつまでも。
(続く)