「二人でお茶を」

 

勢い良く湯気が吹きあがるとケトルの口に付けられた栓が汽笛のような音をたてる。
マリアはケトルの取っ手を布巾で捲いて火から下ろすとティーポットの蓋をあけてお湯を注いだ。
帝劇の厨房に用意してあるティーポットは丸くずんぐりしていてイギリスの普通の家庭で良く使われている形のものだ。
青いラインの中に翼竜の絵が描き込んである。
お湯を少し注いで蓋をし、ポットを暖めてから中のお湯を用意してあるカップに移す。
その間ケトルは少しでも冷めないようにとまた弱火にした火の上にかけられる。
それから濃い緑色のお茶の缶の蓋をティースプーンの縁を使ってパカンと開けるとお茶の葉をスプーンで入れる。
「あなたに一杯、私に一杯、そしてポットの為に……。」
誰に話す訳でも無いのだがマリアはお茶をいれる度についそう口ずさんでしまう。
 

ニューヨークに居た頃、アパートメントの隣の部屋に住んでいたアイルランド系の移民の娘、メアリーがよくマリアの為にお茶をいれてくれた。
マリアの方から訪ねて行くという事は無かったが彼女が頻繁にマリアの部屋にやって来るのは拒まなかった。
深夜荒んだ仕事から戻りドアの鍵を開けて部屋に入る。
灯をつけなくても窓から通りのネオンサインが乱反射して部屋の中を薄明く照らし出す。
場末のホテルの部屋とたいして変わらないマリアの部屋。
藁のはみ出たベッドマットと捩れたままのシーツがかかったベッド。
サイドテーブルの上には汚れたグラスと夕べ食べかけてそのままになったオレンジの皮が乾涸びて転がっている。
小さなクローゼットと申し訳程度のライティングディスク。
ライティングディスクの上には読みかけで置いてあるペイパーバック。
革装の縁が擦り切れる程使い込んだ英露辞典は最近使われていないとみえて埃を被っている。
昼遅くに起きだして夕方仕事に出てからは酒以外何も口にしていない。
引き摺るようにして階段を登ってきた身体が砂袋の様に重い。
空腹感に何か食べないと駄目だと思いながらも靴も脱がずにそのままベッドに仰向けに寝転がる。
脇腹に当る銃が邪魔なので寝転がったまま手だけ動かしてホルスターを外すとサイドテーブルの上に置いた。
弾みで夕方出掛けに塗った後乗せたままのリップスティックがテーブルの上から床に転がり落ちる。
転がっていく音から察するにどうやらベッドの下の奥に入り込んでしまったようでマリアは軽く舌打ちしたが、起きて拾おうとはしなかった。
ベッドに張り付いた後頭部がずぶずぶとのめり込んで行くような感覚が襲ってくる。
そのままウトウトしかけたマリアの耳にカチャカチャとカップの鳴る音と癖のあるノックの音が聞こえてくる。
「マリア、起きてる?
お茶いれてきたわよ、開けて。」
アイリッシュ特有の訛りの有る英語を早口で話す。
知り合ったばかりの頃、やっと覚え立ての英語で会話していたマリアには彼女の言葉の半分も聞き取れ無かった。
空腹感が疲労に勝ったと言えばそれまでなのだろうが、引き剥がすようにして身体をベッドから起こすとのろのろとドアに向かった。
コゼーに覆われたポットと温められたカップが二つ。
ミルクとさし湯のポット、そして薄く薄くスライスされたきゅうりだけを挟んだバターサンドイッチ。
それをトレイにのせてずんぐりとした体型の彼女が部屋の中に入ってくる。
メアリーはトレイを持ったまま肘でドアの横に有る電灯のスイッチを押す。
明るくなった部屋の中に紅茶の香りが漂う。
殺伐とした部屋の中が一気に陽気になった。
テーブルの上にトレイを置きながら機関銃のように捲し立てるのだ。
「また、一日お酒しか飲んで無いんでしょう。
ああ、お酒臭い。
何にも食べないと身体を壊すわよ。
何度言ってもきかないんだから。
ほらほら、こっちへいらっしゃいよ。」
戸口に立ったままのマリアに声をかける。
「あらぁ、また服を着たまま寝転がっていたのね。
背中が皺だらけよ、だらしないわねぇ。」
矢継ぎ早に言われても彼女が言うと不思議と腹が立たなかった。
多分他の人間に同じ様に言われたらマリアはとっくに部屋の外へと追い出していただろう。
「ジャムは?」
トレイの上を眺めながらそう訊ねるマリアに眼を丸くして応えるのも毎回の事だ。
「まぁ、何を言ってるの?
ロイヤルミルクティーにジャムを入れようだなんて。」
「ミルクはいらない。ジャムを入れて。」
「はいはい。」
仕方ないわねぇという表情を浮かべてメアリーはジャムを取りに部屋へ戻った。
間もなく小さなジャムの瓶を手に戻って来たメアリーはすまなそうに言った。
「ごめんね、今ラズベリーのジャムしか残ってなかったわ。
これでも良いかしら?」
「マリーナ!」
マリアは嬉しそうに呟いた。
ぱっと花が咲くようにマリアの表情がなごむ。
今日一日の中で初めて微笑んだという事にマリアは自分で気づいていなかった。
そんなマリアの様子を眺めながらメアリーはミルクを入れていない方のカップにポットからお茶を注いだ。
「何?ラズベリーの事マリーナって言うの?」
マリアが頷くとメアリーは話を続けながらもう一方のカップにミルクを入れ、お茶を注ぐ。
ミルクの入らないお茶のカップにマリアはスプーンですくったジャムを2匙入れてかき混ぜた。
「お茶にジャムを入れるとすっぱくない?」
そう言いながらメアリーは自分のロイヤルミルクティーに口をつけた。
彼女のおしゃべりが止まるのはティーカップが唇を塞いでいる間だけだ。
マリアも黙ってお茶を飲んだ。
一口飲んだ後でほうと溜め息をつく。
彼女が入れてくれるお茶はどんなに安い葉を使っていても何時も美味しかった。
「不思議だ。どうしてメアリーのいれてくれるお茶は美味しいんだろう。」
そう言うと必ず返ってくる返事は同じなのだ。
「あなたに一杯、私に一杯、そしてポットの為に一杯。
これで美味しいお茶が飲めるのよ。」
美味しいお茶を飲みたかったらそうしないとポットの妖精がへそを曲げてしまうと彼女はいつも言っていた。

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