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第十二回  白昼夢のように(前編)

 その人物は、ある日突然私の視界に出現した。

 その日、私は取材があるわけでもなしに、特に大した目的もなく ぶらぶらと街中を歩いていた。周囲の通行人もまた一様に、視線を どこに向けるでもなく、黙々と歩みを進めていた。それがこの街の 平常な姿だった。

 唐突に、一人の女性が歩みを止めた。その女性は先程までの無表 情とはうって変わって、目を見開いて明確なある一点を凝視してい た。その点は移動しているらしく、女性はそれに合わせてゆっくり と首を体を回している。その表情は、おそらくはこの世のものとは 思えない程に尋常ならざるものを目撃したときの、それであった。

 周りの通行人たちもつられて、波紋が広がるように目線をその地 点に集中させていく。ざわめきもまた同じ速度で広がっていった。 無論、この私もとうにその地点に視線を注いでいる。誰もが同じ思 いだったに違いない。
 この場にいる全ての人間の視線を釘付けにしているその人物は、 信じ難いことに頭にベルトのようなものでVBを固定して、コント ローラーで何やら操作をしながら、平然とこの通りを歩いていたの だ。

 その人物は、VBをプレイしている最中であるにも関らず、通行 人や障害物にぶつかることはおろか、アスファルトやマンホール等 の路面の起伏に足を取られることもなく、いたって平然と歩みを進 めていた。我々通行人は、皆歩みを止めてその人物に見入っている。
 やがて、その人物は曲がり角に差し掛かった。我々は、不安げに その人物を見守っている。だが、その人物は我々の心配をよそに、 極めて正確なライン取りでその曲がり角をクリアーしていった。

「おお…」

 私を含めた通行人一同は、思わず感嘆の声を洩らしていた。なお もざわめきが絶えない中、私はハッと気がつき、その人物の後を追 うために曲がり角へと駆け出していった。

 私がその人物を視界に捉えたとき、彼は信号を渡ろうとしている ようだった。私は彼を追って取材を慣行しようとしていたのだが、 不意に信号の青が点滅し始めた。

『まずい!』

 私は、彼を止めなくてはと思い、全力で駆け出した。だが、それ には及ばなかった。その人物はなおも驚くべきことに、信号が点滅 し始めると同時に、走り出して信号を渡ってしまったのだ。

『………彼には信号が見えている!?』

 後には、赤信号とそのために流れ出した車の群れの前で、呆然と たたずむ私だけが残されたのだった。



第十二回 終


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