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■高田屋嘉兵衛とゴロヴニン事件 | 【はこだて歴史物語】 |
【外国船の出没】 1793年(寛政5)6月、ロシア使節ラスクマン一行が入港(箱館に入港した最初の外国船)。さらに1796年(寛政8)、97年(同9)、イギリス航海士ブロートン率いるプロビデンス号の内浦湾来航などがあり、幕府は北方警備が急務であることを知らされました。 のちに高田屋嘉兵衛が活躍することとなるゴロヴニン事件は、このように緊迫した情勢下で発生した事件でした。 【嘉兵衛が最初に箱館に来たのは】 1796年(寛政8)、新造船・辰悦丸で箱館港に入港…28歳の時です。 本格的に海運業に乗り出した嘉兵衛は、幕府の命を受け、択捉漁場の開発にも成功しました。 【ゴロヴニン事件】 1811年(文化8)5月4日、ロシア船ディアナ号艦長ゴロヴニン海軍少佐ら8名が国後島で幕府役人に捕縛される事件が起きました。 偶然にも同年8月14日、リコルド副艦長率いるディアナ号に拿捕された嘉兵衛が調停役として働くこととなります。交渉の結果、捕縛から2年3ヶ月後にゴロヴニンは釈放され、事件は解決に至りました。 宝来町・護国神社坂下にある高田屋嘉兵衛像は、ロシアとの交渉に臨む姿をイメージして造られています(右上図)。 |
![]() 【高田屋嘉兵衛の社会事業】 箱館港での造船所の開設 箱館山の植林 …など 【参考】 箱館高田屋嘉兵衛資料館 北方歴史資料館 |
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■開港への道 | 【はこだて歴史物語】 | ||||||||||||
【開港の背景】 当時のアメリカにとって日本とは、中国をはじめとするアジアとの貿易、北太平洋での捕鯨業を円滑に行うための絶好の補給基地となる…と考えられていました。 東インド艦隊司令長官ペリーが鎖国下にあった日本を訪れたのは、そのような時代背景によるものです。
【ペリー来航】 ペリーが視察のため箱館を訪れたのは1854年(安政元)、4月のことです。 このとき住民には、婦女子の近隣への避難、港や町への出入りの禁止、覗き見の禁止などの触れが出されたそうです。 |
![]() 【参考】 外国人墓地 ペリー提督来航記念碑 |
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■五稜郭〜日本最初の洋式城郭 | 【はこだて歴史物語】 | ||||||||||||||||||||||
【箱館奉行と五稜郭】 1802年(享和2)に設置された箱館奉行所は当初、港の近くに位置していましたが、防備強化のため、移転の計画が立てられました…五稜郭誕生のきっかけです。 【五稜郭の設計者は?】 西洋の学問を研究するため学校、箱館諸術調所※の教授、武田斐三郎が、ヨーロッパで発達した「城郭都市」をモデルとし考案・設計しました。 建設工事は1857年(安政4)に始まり、7年後の1864年(元治元)に一応完成し、奉行所も移転されました。 ※箱館諸術調所…1856年(安政3)に設立されました。
【五稜郭は、なぜ星形?…】 銃や大砲の発達により、日本の従来の形の城では守りきれず、防御側の銃の死角を少なくする構造が求められました。 こうして考案されたのが「守りやすく、攻めにくい」…星形の城なのです。 |
![]() 五稜郭復元模型(1/250) ![]() "和魂洋才"…石垣の積み方などは、 日本の工法が用いられた 【参考】 五稜郭公園 五稜郭タワー |
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■異文化との交流 | 【はこだて歴史物語】 | ||||||||||||||||||||||||||||
開港以来、箱館にはさまざまな異国の文明・文化が流入しました。 その中には日本や北海道に初めてもたらされたものも少なくありません。
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